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リチャード・ウォーリン、『ハイデガーの子供たち』、新書館、の第五章「ハンス・ヨーナス−−生命の哲学者」を読んだ。ウォーリンのヨーナスに対する肯定的な評価の箇所については特に異論はないので、ここでは批判の箇所について簡単にメモしておきたい。
ウォーリンのヨーナス批判は四つの論点からなっている。
一つ目は「自由」の概念についてである。ヨーナスは人間と人間以外の生命体(有機体)とに共通するふるまいである「新陳代謝」に注目し、その営みの中に「自由」を見いだし、人間と人間を取り囲む自然との断絶に架橋を施そうとする。ウォーリンはヨーナスのこの試みに一定の評価を与えながらも、それは同時に人間的自由を貶めるものでもあると指摘する。なぜなら新陳代謝としての自由は、ヨーナス自身も指摘している通り、有機体にとっては同時に必然性であり、そこに選択の余地はないからだ。このような制限をもつ自由を「自由」と呼ぶことにどれほどの意味があるのだろう。このような自由概念は人間的自由の本質を取り逃がしてしまっているのではないか。歴史的に見れば自由は労苦の末ようやく勝ち取られたものである。にもかかわらず、有機体の新陳代謝を自由のモデルにするならば、自由は「人間以下の観念に甘んじ続けなければならな」(同書、p.197)くなってしまう。
二つ目はヨーナスの倫理学が「よく生きること」ではなく「ただ生きること」の優先を説くものである点に向けられる。この主張はソクラテス以来の倫理学を転倒させてしまっており、倫理の本来の意味を歪めてしまっている。ヨーナスは生命論の中で人間と自然の連帯を強調するあまり、それを基盤とする倫理学の場面においても、人間固有のものである倫理のあり様を損なってしまっている。
三つ目の論点はヨーナスが責任の原型として提示する「親−赤子」にまつわるものである。ヨーナスは赤子があげる産声は親(大人)への呼び声であり、それを耳にするものは赤子を世話するよう促されるのだという。それは実際に赤子を「見ればわかるSieh hin, und du weisst」。ウォーリンが寄せる批判は、ヨーナスのこの主張が多くの歴史的経験によって反証されている(そしてそれは正しい)という点にあるのではない。問題は、この親子関係を原型とする責任の拡張が困難である点にある。なるほど親の子に対する世話すべしという責任は強固なものかもしれないが、その力強さは親子関係の特殊性に由来するのではないか。親子関係における責任は、親子以外の関係における「責任」の脆弱さをこそ示しているのではないか。私たちはむしろその事実を認めて、「そこから人間的連帯の理論を構築しはじめるほうが、はるかに生産的かもしれない」(同書、p.199)。
最後の論点は、専制Tyranneiを擁護し、プラトンの「高貴な嘘」をも許容する、反民主主義的な、あるいはエリート主義的なヨーナスの政治思想に向けられる。ヨーナスは、師であるハイデガーと同じくテクノロジーの「惑星規模での荒廃」を性急に告発するあまり、リベラリズムを含む近代の遺産をやすやすと手放してしまう。あまつさえ近代は訂正されるべき誤謬だったのではないかという疑問をも提示している。ヨーナスの政治的な主張と、ヨーナスが「生命の哲学」において与する生気論Vitalismusとの関係は、20世紀の悪夢であるファシズムとその先駆者である非合理主義(人間の知性に対する「生命原理」の優位を唱える生の哲学Lebensphilosophie)との関係と親和的であるとみなすことはそれほど的外れなことではないだろう。
ウォーリンのこの批判は、ヨーナス哲学を継承する際に決して素通りをしてはならない「障害物」を明示してくれている。私はこの障害物が乗り越え不可能だとは思わないけれど、それは今後の仕事の中で示さなければならないだろう。その意味で、翻訳書の帯文にある「『ハイデガーの子供たち』、それは多くの人びとが反駁しようと努力する本である。しかし、無視することは誰もできない。」というマーティン・ジェイの言葉は、少なくともヨーナスの章については的確な評となっている。

ハイデガーの子どもたち―アーレント/レーヴィット/ヨーナス/マルクーゼ
- 作者: リチャードウォーリン,Richard Wolin,村岡晋一,小須田健,平田裕之
- 出版社/メーカー: 新書館
- 発売日: 2004/04
- メディア: 単行本
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